歴史

宗徧の祖先は信州大町の城主、仁科次郎盛遠だといわれており、宗徧の生まれた頃は、京都の長徳寺の住職を代々勤めておりました。

宗徧は6歳の時、小堀遠州について茶の湯をならい、16歳で印可を受けましたが、宗徧の茶の湯を決定しましたのは18歳の正保元年(1644年)に出会った千宗旦であります。宗旦の佗び茶に傾倒した宗徧は、寺の住職を捨て一生を茶人としてすごす決心を致しました。宗徧は今の右京区鳴滝に草庵を結び、稽古に励みました。宗徧は宗旦から利休伝来の四方釜を贈られて以来、四方庵を名のりました。

宗徧は宗旦の推めにより、明暦元年(1655年)幕府の老中でありました三州吉田藩の小笠原忠知の茶頭となり、43年間、小笠原家4代の藩主に仕えましたが、元禄10年(1697年)71歳の時、家督をおいの宗引に譲って隠居、江戸の本所に茶室を構えて老後をすごすこととなりました。

宗徧は利休流茶の湯の解説書ともいうべき「茶道便蒙抄」を延宝8年(1680年)に、「茶道要録」を元禄4年(1691年)に、「利休茶道具図絵」を元禄14年(1701年)に刊行しました。

赤穂浪士の一人、大高源吾が宗徧に入門し、吉良邸で催す茶の湯の納会の日程を知り、目指す仇の在宅の日を確かめ、みごと本懐をとげた話はあまりにも有名です。それに宗徧がどのようにかかわっていたか真偽の程はわかりませんが、すべてを見て見ぬふりをしていたというのが本当のようです。

茶の湯について、いつも「晴れを常に、常を晴れに」と説いた宗徧は多くの門弟を育て、宝永5年(1708年)4月2日、82歳で亡くなりました。

宗徧居士の墓は台東区浅草の本願寺にあります。

時は幕末、二世宗引、三世宗圓、四世宗也、五世宗俊と代々小笠原侯の茶頭として仕えてまいりましたが、第六世宗弥の代の天保13年(1842年)に故あって、小笠原家の茶頭を辞しました。江戸隅田川畔に竹林軒の草庵を設けると共に脇坂淡路守侯の茶頭となりました。宗弥は宗徧伝来の諸道具の散逸を憂い、脇坂侯のもとに相談しました。結果、安薫侯は織部と遠州、金森宗和の茶道を通し宗徧の佗び茶を宗弥より伝承されたのでした。そして安宅侯は文武両道の精神のもと、宗徧流の茶を脇坂十二代安斐侯をはじめ座光寺宗是、谷宗玄、別府竹葉等、家来に指導し、「茶道便蒙抄」を規範として「脇坂文書」の手引書をまとめました。その後、宗徧の茶道は六世宗弥の孫宗貞が八世、宗理が九世となったため、七世は宗徧の伝来品を保持し、流祖宗徧の佗び茶を継承された安斐侯(宗斐)を迎え後世にその遺徳を偲び、代々脇坂家の菩提を奉じるようにいたしました。

明治30年頃のこと、宗徧流をたしなんでいる宗斐と宗知と宗榮が期せずして話し合いをし、宗斐の長男壽の次女脇坂龍子を岩田家に嫁がせ、宗徧流を継承することを約束されました。十一世宗榮の長男仲蔵のもとに嫁ぎ、十二世宗龍となりました。龍子は宗徧の遺品伝来品と宗徧流茶道の真髄といわれた茶道規範、及び宗弥が安宅侯はじめ脇坂家の面々と執筆した「脇坂文書」を持ち、また安照侯・安薫侯の位牌を携え、岩田家に嫁ぎ、ここに利休正伝の真髄が伝承されました。

昭和54年秋、大本山臨済宗円覚寺管長、朝比奈宗源老師の庵「正伝」の額をもって示唆され、「宗徧流正伝庵」を称することになりました。

流祖は師匠である千宗旦の心を継承され、華美を廃し、質素を旨とした地味な佗び茶人でありました。"手なり体なり"の点前を尊重され "いつ始まっていつ終ったのか"と思われる程、自然で円味のある作法を相伝されました。棚物も少く、道具類もきらびやかさを好まず、季節感のある雅味な取合わせを主とした方でありました。

小笠原侯、越後長岡の牧野侯、脇坂侯の大名方もその心を伝承されましたがこの流祖の心を宗徧流正伝庵の心として末長く同好の方々にも、大切にしていただけましたら幸いです。

当流では現在、宗徧伝来の佗び茶の心と茶道のお点前、また青少年の礼法と教養、茶花を通じ茶道理論と実技の向上に力を注ぎ、茶禅一味の精神で精進しております。

宗徧流正伝庵歴代家元系譜

利休

少庵

宗旦

流祖(一世)
宗徧

二世
宗引

三世
宗圓

四世
宗也

五世
宗俊

六世
宗彌

七世
宗斐

八世
宗貞

九世
宗理

十世
宗知

十一世
宗榮

十二世
宗龍

十三世
宗仙

十四世
宗玖

十五世
宗龍

家元後継
宗玹

稽古日

第一・第二・第三週の木・金曜日

10:00〜21:00(諸行事により変更あり) 月三回のお稽古

会費(月謝)

月3回で11,000円

入会金

10,000円